読むべき本について〜『DEATH』雑感〜

『DEATH』への失望

『「死」とは何か イェール大学で23年連続の人気講義』
(シェリー・ケーガン著、柴田裕之訳、文響社)

の完訳本が出たということで、
縮訳版で既に興味を持っていた僕は
喜び勇んで本屋へ足を運んだ。

700ページを優に越すハードカバーの本はずっしりと重く、
質感としてはまさしく読み応えのありそうな本だ。

ところが、である。

これが実につまらないのである。

何がつまらないかというと、
文章の本質である「実感」というものが
まったく欠けているのだ。

より詳しくいえば、
本書は哲学というよりは論理学的である。

つまり、「死ぬ」とはどういうことかについて
「言葉上だけの」理詰めで考えていく
といったものだ。

具体的には第1講と第2講は
「死」を論理的に考えていくにはどうすればいいかが
事細かに書いてある。

第2項に至っては、大方こうである。

「一、人間は魂と肉体とに分けられる存在である。
その場合、人は死んだ後も生きているということができるか」

「一、人間は全く物質的な存在である。
その場合、人は死んだ後も生きているということができるか」

上記のような事柄について、
延々と字面で考えていくというのが
この本の特質だ。

要は、著者が経験したことや
感じたことから出た言葉というのは皆無で、
他の本にも書かれているようなことを
頭でこねくり回して作り直した言葉だけが並んでいる。

いってみれば全く言葉遊びの域を出ていないのだ。

もっとも、第2講(70ページそこそこ)しか
読んでいない僕のこの本に対する批評は
いささか早とちりかもしれない。

しかしながら、
友達に誘われた読書会でこのことを話すと
縮訳版を読んだ別の友達から
「本全体を通して確かにそんな感じがある」
との言葉をもらったのだ。

 

マーケティングさまさま

ブックライターとして
本の代筆をしている者の身からいうと、
本や文章にとって命ともいえるのは、
執筆者の実体験である。

これが伴わない文章は、
他人が語ったことを自分の口で語っているだけで、
質感というものを伴わない。

しかし、今、本屋に行けば
どこの誰でも語れそうなことを
大手を振って語っているような本ばかりが並んでいる。

ちょっと前に流行った本でいえば、
『ティール組織』などは紹介文だけ読めば、
そんなことはあんな分厚い本で
確かめるようなことではないということがわかるし、
『FACT FULLNESS』にしても、
大学や高校でしっかり勉強していればわかることばかりで
別に目新しいことが書いてあるわけでもない。
(そうした本に比べれば、自分のやり方が
絶対に正しいと語るハウツー本の方がまだマシだ)

それでもこうした本が売れるというのは、
表紙のイケてるデザインと
出版社と書店の優れたマーケティングの
おかげなのだろう。

そういう意味では売れている本から学ぶべき点も多い。

まったく、デザイナー、マーケッターさまさまである。

 

実体験こそ価値ある情報

もっとも、誰にでも語れそうなことを
あえて語る本というのも全く無意味なわけではない。

そうした本は入門書としてはある程度の役割を果たす。

だけれども、本当の意味で
人生に影響を与えるような本というのは、
背景に著者の実体験が潜んでいるものだ。

そしてその実体験から
著者自身が人生において大きな学びとなった教訓を
赤裸々に書いている本というのが
読者にとって本当に読むべき本なのだ。

自らの実体験から、
万人に共通する教訓を導き出した本を
せっかくなのでいくつか共有しておこう。

デンマークの哲学者である
キルケゴールの『死に至る病』
彼自身が自らの存在に対して抱いた疑問というものを
見事に文章化している。

2018年に101歳で亡くなった日高六郎の
『戦後思想を考える』
彼自身の戦争の経験を踏まえて、
戦後の日本がいまだ戦前の日本の延長線上にあることを喝破し、
その矛盾がいずれ一つの社会的崩壊を招くとして、
1980年にして既に暗に原発事故のような大惨事を予想している。

先日も別の記事で紹介した心理学者
チクセントミハイ の『クリエイティヴィティ』
彼自身の経験ではないものの、
ノーベル賞受賞者や世界的な芸術家など
91名の経験一つ一つに丁寧に向き合い、
人間の創造力が真に発揮される条件について、
見事なまでに洗い出している。

禅僧であり、剣術の達人でもあった大森曹玄の
『参禅入門』は、禅という言葉では言い表しがたい体験を
彼の実感を基にしたからこそ、万人に応用できる教訓を
比較的わかりやすい言葉で表現するのに成功している。

実感が伴った名著というのは
もちろん他にもたくさんあるが、
パッと思いついたところを挙げれば、
だいたいこんなところである。

 

読むべき本とは何か?

日本の古い本を開いてみるとわかるのだけれども、
昔のハウツー本ともいえる武術書などは、
たとえ現代語訳を施したとしても、
今の本屋に溢れるハウツー本などよりも
すこぶる読みにくい。

そうした本はただ単に刀はこういう形で振るとか、
弓はこういう形で射るとかいうことは
さらっとしか書いていない。

僕が中高時代に足を踏み入れた弓道でいえば、
矢を放つ直前の、弓を引ききった形は
「天上天下唯我独尊の境地である」と
教本には書かれている。

そういった表現は、実際に弓を引いた者が
「天上天下唯我独尊の境地」を感じないことには
書かれない。

おそらく、大多数の人は
そうした表現を意味不明のものとして、
弓でいえば射法の形、
剣でいえば刀の振り上げ方といった
外観の明らかな動きを詳しく知りたいと思うのだろう。

しかし、外観の形にせよ、
それはやはり体を通した実感が伴わなければ、
真に会得することはできない。

だからこそ、今に残る武術の書には、
著者自身が実感したことが書き綴られ、
禅的で難解な表現が残っているのだろう。

現代ではどうしても
そうした難解な表現は忌避される。

本屋に並ぶ本もわかりやすさを謳ったものばかりだ。

そうした本も確かに必要なときがあるだろう。

そもそもある程度わかりやすくなければ、
著者が伝えたいことも読者には伝わらない。

しかし、だからといって、
今の本は目に見えることや目を引くことだけを
書き綴るものになってはいないか?

そこに何かしらの著者自身の実感が伴っていることを
置き去りにしてはいないか?

ハウツー本にしても
『「死」とは何か』のような本にしても、
目に見えることだけを取り上げる本というのは
確かにわかりやすい。

ただ、それが万人に共通して身になる内容かといえば
そうではない。

あるやり方が、一人の人間に合っていたとしても、
他の人間には合わないなんてことは、ざらにある。

だからこそ、
読者にとって真にためになる本というのは
著者自身の実感が
書き込まれていなければならない。

著者の実感が共有されてこそ、
読者は自らの実感を振り返ることになる。

上っ面だけ形を装った本や文章はもういらない。

自分の実感をありのままに、
赤裸々に語った本や文章を、
僕は求める。

 

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