物書きなら机を捨てろ

文章とは何か?

寺山修司の作品に
「書を捨てよ、町へ出よう」という題名が
付けられたものがあります。

僕はこの作品を読んだことも、見たこともないけれど、
なんとなく、この題名は
物書きをしている僕の頭にいつも響いています。

文章を読むということは、
その文章を書いた人の想いや考えに触れるということです。

一方で、文章を書くということは、
自分の想いや考えを言葉にするという作業です。

僕が今ここであなたに向けてしている「書く」という作業は、
僕の想いをあなたに伝えるためにやっています。

でも、これといった想いや考えが
自分の中になければ、
文章を書くことはもちろん、
言葉を口にすることも、
また絵を描いたり、歌を歌ったりといった
あらゆる表現活動も、
僕の心の中に沸き起こりません。

そういう意味では、
ブロガーやSNSで活躍するインフルエンサーなど、
文章を書くことを生業としている人は、
「想い」や「考え」といった自分の中から湧き出てくるものが
生命線であるわけです。

 

文章を書くのに知識はいらない

「想い」や「考え」とは何でしょう?

それについては後ほど詳しく述べるとして、
昔の僕、そして今も多くの人が勘違いしているであろうことを
ここで少し述べておきたいと思います。

僕は学生時代に、頭が良くなりたいと思って、
とにかく手当たり次第、難しい本を読んでいました。

カントの『道徳形而上学原論』や
ヴィトゲンシュタインの『論理哲学論考』などという
小難しそうな題名の本を見つけては、
意味がわからないなりになんとかわかってやろうと、
言葉一つ一つをじっくり目で追って、
隅々まで読んでいました。

そして、そうやって難しい本をたくさん読んでいれば、
いつか自分も何かしら本を書けるだろうと
思っていたものでした。

読書のおかげで、
僕は難しい言葉はたくさん知ることができました。

ところが、「ヴィトゲンシュタインという哲学者の考えは、
これこれこうである」といったような知識は
これでもかというほど持てたのだけれども、
一方で自分の中に何かが積み上がったという実感は
これっぽっちもありませんでした。

文章を書いても、どこか他人の口で語っているような、
歯が浮くような言葉ばかりが自分の前に並んでいたのです。

今になって振り返れば、
そうやって自分の文章に浮き足立った感覚を抱いたのは
当然だとわかります。

何故なら、どこかから学んできた知識というのは、
誰かの言葉であって、
自分の感覚や感情から湧き出たものではないからです。

この言葉は自分のものではないという事実が、
僕の文章をどこか自信の持てないものにしていたのです。

文章の核となる「想い」や「考え」が
自分の持っている知識とは
なんら関係ないということに気が付いたのは、
そうした自分の文章に対する歯がゆさの原因に
気が付いてからでした。

ただ、周りで文章を書いている、
もしくは書こうとしている人を見ると、
少なくない人が、文章は知識がないと書けないと
勘違いしているように思います。

そして、多くの文章が、
「自分はこれだけの知識を持っているのだ」
ということを示さんがために、
読者に強烈に訴えかけているように感じます。

でも、そうした文章は厚かましいだけです。

知識は、ある意味では文章を書く際には
全くといっていいほどいらないのですから。

 

物書きの生命線

では、「想い」や「考え」というのは
一体何なのでしょうか?

それは、自らの感覚や感情を言葉にしたものだと、
僕は考えています。

つまり、自分が五感で何を感じ、
また心で喜怒哀楽の何を感じたかが、
あなたの「想い」や「考え」の
基礎となるのです。

こうした五感で感じ取った感覚や、
喜怒哀楽といった感情は、
本来非言語的なものです。

だから、感覚や感情は
自分の頭の中で言葉に変換される前に、
それらを十分に身体で感じ取ってやらなければ
いけません。

ただ、文章を書く人というのは、
良くも悪くも言葉をよく知りすぎています。

だから、言葉が達者な人ほど、
言葉だけで全ての物事を考えられてしまうのです。

でも、感覚や感情といったものは、
密室の中で一人で物思いにふけっているだけでは
何も刺激されません。

感覚や感情が刺激されることがなければ、
物書きがものを書き続けるための生命線である
「想い」や「考え」といったものも
湧き出てこないわけです。

だから、物書きやライター、
ブロガーとして生きたいのなら、
部屋の中でぬくぬく過ごすのはもちろん、
机を捨てて、町に出るべきなのです。

 

「誰とも喋らず、文章だけ書いていればいいや」の愚

今の社会には、コミュ障と呼ばれるような、
他人と関わることを苦手としている人がたくさんいます。
(僕自身、数年前までそれに近い人間でした…)

そして、自称コミュ障の人の多くが、
「人と話さなくて済むから」という理由で、
ブロガーやライターといった仕事に就こうとします。

でも、文章の基本は
あなたの「想い」と「考え」です。

そしてこれらは、感覚や感情といった
自分とは異なる存在との接触によってしか
揺れ動くことのない器官の活動のみによって、
沸き起こってくるものです。

つまり、文章を書くのであれば、
「他者との関わり」は
絶対に切り離すことのできない活動なのです。

もちろん、対人関係がうまくいかない人でも、
たまにいい文章を書くことがあります。

でも、そういう人の文筆活動は、
幸せとは程遠く、また人によっては死地の際を越します。

「想い」は自分とは違う誰かがいて
はじめて沸き起こるし、また受け止められます。

誰にも受け止めらることのない「想い」を
吐き続ける人生は、孤独を再確認するだけです。

本当に文章を書くことで生きていこうと思ったら、
人間関係は絶対に書くことのできない要素です。

だから、やたら滅多な心構えで
この世界に入ろうと思わないほうがいいと
僕は思っています。

物書きという仕事は、
机を捨てて、外の世界と向き合う覚悟を
持った人だけがものにできる世界なのです。

 

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