無政府主義に学びました〜飄々と書けばいいじゃない〜

アナーキーな文章家

戦前の無政府主義者で、
関東大震災の際に虐殺された
大杉栄の評論集を読み切った。

表紙に掲げられた自画像から醸し出される
飄々とした雰囲気は文章からも存分に感じられ、
思想に触れるというよりは、
人に触れるというような本だった。

しかし、書いている内容はことさら切れ味が鋭い。

特に、民本主義やらボリシェヴィズムといった
理論派をかたる政治学者などに対しては容赦無く、
「口先だけで物事を語ってんじゃねえよ」と
口酸っぱくいってくる。

そうした批判は、
彼の死から100年近く経った今でも
ライターや文章家を気取る者の多くが
甘んじて受けなければならないだろう。

 

文章がうまいとは何か?

実際、僕も少し前の文章であれば、
彼の批判を全身に受ける必要があったと思う。

以前の僕の文章というのは、
本で学んだり、誰かから聞いたりしたことを、
頭の中だけでこねくり回して
書き上げたものだったからだ。

今見返しても、そこには
自分の実感や実体験というものが
まるでない。

そんなもので、
一流のライターを気取っていたのだから、
全く恥ずかしい限りである。

しかし、文章というと、
多くの人は頭で考えて書き上げるものと
考えがちであるようだ。

それは過去の僕と同じように、
「自分は文章がうまい」と思っている人に
特に顕著である。

だけども、その「うまい」というのは、
例えば文法的に正しいかどうかだとか、
語彙が豊富かどうかといった
枝葉末節の技術的な点についてに過ぎない。

もちろん、それはそれで
名文が書けるような素地はあるのだと思うが、
どんな文章も自らの実感や
実体験というものがなければ、
肝心の中身はすっからかんも同然である。

逆に、どんなに拙い言葉遣いであったとしても、
実感や実体験が伴った文章というのは、
それだけで読み応えがあるものだ。

初めに紹介した大杉栄の文章というのは、
その点が特に優れていて、
当時の思想体系がどうだのとか、
誰がどんな説を唱えただのといったことに
全くついていけなかったとしても、
彼の言いたいことが十分に伝わってきて、
一つの作品として面白いと感じた。

 

飄々と生きていけばいいじゃない

学校教育や大学での論文というものは、
どうしても正しい言葉使いというものに
こだわりがちだ。

そして、そうした教育を受けてきた僕たちも、
文章を書くとなると、
ことさら「正しく」書こうと思いがちだ。

だが、「正しさ」にこだわると、
筆というのは途端に鈍る。

言葉を紡ぎだそうとする頭も
それ以上に鈍る。

スポーツにしても、仕事にしてもそうだが、
「正しさ」というものを求めると、
人間はどうも言動の調子が悪くなるものだ。

今一緒に働いている人の一人も、
仕事を間違いのないように
正しくこなそうということにこだわるあまり、
必要のない仕事にまで手を出すなど、
全体が見えなくなっていることがよくある。

言葉を紡ぐときというのも同様だ。

あまりに正しくものを書こうとすればするほど、
小手先の表現手法にばかり気が向かい、
本来何が伝えたかったのか
わからないような文章が出来上がる。

それではあなたの刹那の心のひらめきを
なぎ捨ててしまっているようで、
あまりに勿体無い。

人のひらめきというのは残念ながら、
次々と沸き起こってくる雑念の中に
深い爪痕を残すことはできず、
一瞬の閃光ののち、瞬く間に消えていく。

だからこそ、初めのうちは
文法などにこだわらぬほうがいい。

思ったこと、感じたことを、
他人の目や学校教育の目など気にせずに
飄々と書いていくがいい。

それができる文章家など思ったほどいないのだから、
それができるだけでライターとしては
頭一つも二つも抜け出している。

 

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