好きなことを書く生き方は、とてもストイックな生き方だった

「やりたいことはやる、やりたくないことはやらない」

僕は物書きとして生きていくと決めてから、
自分が感じたり思ったりしたことを
自由に書き綴るということを一つの信条にして
文章を書いてきました。

同時に、文章には書いた人の人柄や生き様が現れるということを
つとに感じていたため、
そういう自由気ままな文章を書き続けるためにも、
「やりたいことはやる、やりたくないことはやらない」
という生き方をしていければいいなと思っています。

でも、このあいだ、そういう考えをある人に話したときに、
「それはつまり自分勝手に生きるということですね?」
と言われてしまいました。

なるほど、言われてみれば
「やりたいことはやる、やりたくないことはやらない」
というのは、とても身勝手に聞こえる響きです。

そんな人が身近にいたら、さぞかし迷惑だろうと僕も思います(笑)

ただ、言い訳がましく聞こえるかもしれませんが、僕の考えている
「やりたいことはやる、やりたくないことはやらない」とは、
「身勝手」とはちょっと違うと思っています。

実際、身勝手に生きてみようとすれば、
ほとんどの人は周りの人との利害の調整という困難に
ぶち当たるでしょう。

でも、僕が思っている
「やりたいことはやる、やりたくないことはやらない」
という生き方は、
他人とぶつからない生き方をすることであるとも思っているのです。

 

「本当にやりたいことは何なのか?」という問題

「やりたいことはやる、やりたくないことはやらない」
というのは、別に何も自ら他人とぶつかりにいくわけではありません。

そんなことはやりたいとは思いません。

もちろん、たまには僕も、ムカついた相手に対しては
「このやろう!」と思って、
悪口の一つや二つは言いたくなります。
(そういえば、今一緒に仕事をしている仲間から、
「伊藤ちゃんって案外口悪いよね笑」と言われました)

でも、だからといってその場で出まかせに相手を悪く言えば、
瞬く間に喧嘩になってさらに後味が悪くなるということは
考えなくてもわかります。

だから、「このやろう!」の一言は、独り言のように言っています(笑)

いつまでもイライラした状態でいることは、
誰だって望むことではありません。

かといって、それをすぐに発散しようとして、
相手に向けてぶつけるのも、
後味を考えればあまり賢い手ではありません。

逆に発散せずに抑えつけて、
怒りを忘れるまで放っておくというのも、
あまり健康的ではありません。

怒りというのは抑えつければ抑えつけるほど、
どんどんどんどん膨れ上がっていくものだからです。
(僕はそれで何度、
古い記憶に意味のない後悔と怒りを抱いたことか)

怒りの解決法はただ一つ、
自分が何故に怒りを抱いているのか
原因となっている欲求不満を突き止めて、
その欲求不満を満たすことです。

大概、この欲求不満というのは、
自分が相手よりも正しいということを
実感すれば満たされます。

だから、その意味では愚痴をこぼすというのも
ストレス発散のためにはいいのかもしれません。

もっとも、あらゆる事実を勘案して、
自分は情状酌量の余地がないほど悪かったのであれば、
怒りは単なる逆ギレになり、
さらに後味が悪くなるわけだから、
この場合については全く勧められませんが…

やや話が逸れてきてしまいましたが、
「やりたいことはやる、やりたくないことはやらない」というのは、
例えば怒りを抱いているときの本当の欲求は何なのかを見極めて、
それに沿って行動するということなのです。

人によってはたまに「怒りたいから怒る」
というように見える人もいますが、
そういう人は大概この「本当の欲求」を
見つけられなくてイライラしているだけです。

「本当の欲求」というのは、
他人から受け入れられないことをしたいと
思うことではありません。

 

心理学的観点

「他人から受け入れられないことをしたい」と考えることが
いかに「本当の欲求」からかけ離れたことであるかは、
例えばアメリカの心理学者マズローの「欲求5段階説」を見ても
よくわかります。

この説についての詳しい説明はここでは避けますが、
マズローは人間の基本的な欲求5つの中に
社会的欲求があるとしました。

これはすなわち、家族や友人、会社の同僚などから
受け入れられたいという欲求です。

自分のこととして考えてみれば、こうした欲求を抱くことは当然で、
親からネグレクトを受けた子どもは、
命すら脅かされるとても悲惨な状態に追いやられるでしょうし、
心の許せる友人がいない人間はいつも寂しさを感じるでしょう。

また、職場の人たちから受け入れてもら得なければ、
あなたはきっと働き辛さを覚えるはずです。

他人から受け入れられないことほど、
人間を精神的に追い込む状況はないのです。

さて、そういうわけで、実際には命すらも左右するはずの
社会的欲求でありますが、
例えば先ほどの怒りの場合のように、
また「身勝手に生きる」場合のように、
これが無視されてしまうとはどういうことでしょうか?

人間は、自分の欲求を正しく認識できないのでしょうか?

答えからいうと、
僕たちは自分の欲求をきちんと認識できないようです。

それは、例えば満腹であるのにまだ何かを口にしたいと思う
などといったことを思い浮かべれば、簡単に想像できます。

要は、身体の求めることと、頭が求めることは
しばしばぶつかり合っているということです。

それで、僕たちは自分の本当の欲求はなんであるかを
よく見失ってしまうわけです。

 

好き勝手書くのは案外難しい

ブロガーなどといった自由気ままな物書きは、
文章を好き勝手書いていると思われがちです。

ところが、上で説明してきたことを踏まえれば、
実は好き勝手に書くことほど難しいことはありません。

人間というのは残念ながら自分の欲求を正しく認識することが
とても苦手だからです。

そのことを知らずして、身勝手な文章を書いている人は、
大抵多くの敵を作ります。

ともすれば、SNSなどでは「炎上」という形で制裁を受けます。

たとえ匿名のネット上であるとはいえ、
どんどんどんどん居心地が悪くなります。

本人は自分の欲望に従って文章を書いていると思っていても、
実際には不満がどんどん溜まっていくようになります。

自分の本当の欲求を見出すというのは、
単純だけれども難しいわけです。

「本当の欲求」はある意味では本能的であるので、
身体や感覚の動きを静かに、かつ事細かに受け止めてやれば、
わりとすんなり見出すことができます。

ところが、僕たちは何かと頭を使って物事を捉えがちです。

座禅などを組んでみればすぐにわかることですが、
自分の呼吸のリズムなど、
身体の動きをあるがままに受け止めようとしても、
すぐに雑念が入ってきてしまいます。

僕なんかは、家で夕食を作っている間に、
夕食とは全く関係ない事柄が頭にポンポン浮かんできます。

僕たちの頭脳というのは、それほどまでにうるさいのです。

そんなうるさい頭脳を前にしては、
本能的な性格を持った「本当の欲求」を捉えることは
とても難しいです。

でも、ものを書くというのは、自分一人でやる作業だから、
ある意味では座禅のように、
本来の己をしっかりと見つめ直す機会でもあります。

だから、
「やりたいことはやる、やりたくないことはやらない」
そして「自分の思ったことを好き勝手に書く」
という生き方は、
そうした自分との対話を続けていく、
ある意味ではとてもストイックな
修行のような生き方でもあるのです。

 

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